《ハワイに残る日本人の足あと》 ハワイへ渡った日系移民たち
ハワイは、多種多様の文化が根付く島。
世界中から移民した人々の文化が混ざり合って生まれた独自の思想や文化があるのは、まさにハワイだけではないでしょうか?
私たち日本人もハワイへ移住した民族のうちの一つですが、ハワイへ渡った日系移民たちは言葉もわからない異国の地で、日本の文化や伝統、思想をゆっくりしっかり育て受け継いできました。移民たちが築き上げてきた歴史が今のハワイをつくりあげている、ともいえますよね。
そんなハワイへ移り住んだ移民たちの中には、我らが九州の人たちも大変多くいました。今回はそんな日本からハワイへ渡った移民についてを、ちょっとだけ歴史を遡って学んでみましょう!
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そもそもハワイが移民を必要とするきっかけとなったのは、1835年につくられたサトウキビプランテーション(砂糖の原料であるサトウキビをつくる会社)の設立でした。
あわせて製糖所がつくられ、ハワイ産の砂糖が売れるようになってきてからハワイのサトウキビは大産業へと発展するのですが、その生産数に対して広大な土地で働く「労働者が足りない!」という事態を迎えるのです。
そこで1885年、ハワイは日本と“労働移民条約”を結び、その年に早速、政府の指示のもと日本人944人がハワイへ渡ることとなりました。
昔から何に対しても真面目で、義理堅く、律儀だった日本人。
移民としてハワイへ移り住んだあとは、サトウキビ畑での大変な重労働を強いられますが、それでも毎日コツコツ仕事に励んでお金を貯め、ハワイで自立する人も出てくるほどでした。
移民にも契約期間というものがあったそうで、その年数は3年間。ですが、しっかり働いて3年たったら日本へ帰国する人もいれば、契約が終わっても他の仕事に就いたりしてハワイにそのまま住む人も多くいたといわれています。
この残った人たちが、後のハワイ日系人となるわけですね!
パイナップル栽培が盛んなワヒアワ地区。見渡す限りのパイナップル畑は今も健在!
そのような背景があって、1894年までの間で日本から移民がおくられた回数は計26回、約2万9000人ほど。その後、移民の制度が変わっていく中、1924年に日系移民を禁止する法律ができるまでには日本からの移民の数はなんと約22万人にまで達したといいます!
22万人というと福岡市博多区の人口とほぼ同じ。博多区民が町からすっぽりいなくなってハワイへ移住してしまうのと同じ数!…と例えてみたものの、う〜ん数が多いのはわかるんですけど、把握しにくいですね (汗)
時代は移り変わって、移民たちの住まいも農地から周辺の町へ、またはホノルル、ヒロなどへと広がるようになると、漁業や商業、パイナップルやコーヒーの栽培などを始める人たちがだんだんと増えてきました。
そこで気になるのが移民の出身県。
ハワイに渡った移民たちの出身地で一番多い県が、山口県。(これは当時の指導者であった井上馨外務大臣が山口県出身だったからというのが理由の一つだそう!)
次に広島県、そして熊本県は第3位。4位は福岡県と続き、西日本と九州から移り住む日本人がとても多かったことがわかりますよね!ハワイに住む九州人が多いのも、納得です。
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はじめのうちは言葉も理解できない異国の地ハワイで、日本の文化や日本人としての生き様を無くすことなく、様々な経験をしながら次の世代へと繋いできた日系移民たち。
そんな彼らが、今のハワイを語る上で欠かすことのできないアロハシャツやスパムむすび、醤油や豆腐、Bento(弁当)などなど、数えきれないほどの産物をハワイの地に残してきたのです。
今のハワイに残る日本人の足あと、みなさんはどのくらいご存知でしょうか?
この続き、詳しい内容はまた次回、ご紹介することにしましょう!
お楽しみに〜♡
私は熊本出身ですが、私の先祖も数人ホノルルに移民していました!
移民に関する過去のいろんな情報が分かってよかったです(*^^*)
まだハワイの親戚と会ったことがないので会ってみたいなぁー